2008年3月9日日曜日

絶好の祭日和 大縣神社 姫の宮豊年祭

今日は、春を呼ぶお祭り、姫の宮豊年祭が盛大に行われました。


姫の宮は、大縣神社末社の一つで、祭神は、倉稲魂神(うがのみたまのかみ)と比買神(ひめがみ)です。





大縣神社境内にある一の池、二の池(宮池下、上とも言うようです。)の奥におそそ洞という秘境があり、そこには大きな天然の女陰磐境(いわさか)があります。


大縣神社の梅園を過ぎ、奥にしばらく進むと、池が二つ有り、鳥居を超えると右手に赤い鳥居が見えます。






その鳥居をくぐり、奥へと進むと姫の宮奥宮があり、女陰磐境(いわさか)が祀られています。





かつて、里の人たちは、春になるとここへ来て五穀豊穣を祈りました。

持統天皇の時代(645年~703年)に、祭神が社に奉祀されました。里人が倉稲魂神(倉神)様ととなえれば、いろいろな願い事がかなえられ、そのお礼に自分の年の数だけ松かさを糸につるして社前にお供えしたと言われています。

以前は、宮山で女陰の形をした松のこぶを切り出し、25厄の若者たちが神輿に載せて担いでいました。しかし、神輿の担ぎ手が居なくなり、現在は、男が42厄、61厄、女が19厄、33厄の祭りとなり、42厄の男たちが神輿を担いでいます。


前日には、42厄の人たちが神殿でお祓い受けた後、梅が見頃を迎え、多くの人々が見守る中、ふんどし姿で禊ぎを行っていました。




今年は、比較的暖かい中行われた禊ぎですが、ふんどし一つではさすがに寒く、「パパ~ がんばって!」とかわいい声援が飛んでいました。

祭りは、2月17日に行われていたのですが、男性の祭りとして有名であった田県神社の豊年祭と同じ日に行ってはどうかと、昭和25年名古屋鉄道から提案があり、協議した結果、田県神社と同じ3月15日を祭りの日とすることになりました。

名古屋鉄道の提案により、男性の祭りである田県神社の豊年祭りと同日に行うアベック祭りとして有名でしたが、今では、平日の開催が困難となったため、3月15日以前の日曜日に行うこととなり、数年に一度の同日開催となってしましました。ちなみに来年は、同日開催となり、一層の混雑が予想されます。

(参考:犬山市史 別巻 文化財 民俗編 776~777頁)


まずは、祈念祭からはじまり、子ども神輿、稚児行列、献餅車や花嫁パレード、神幸行列と続きます。今年の献餅は、市内に本社のある名古屋特殊鋼株式会社が行いました。




神幸行列は、大縣神社西方約1.5キロメートルにある諸钁(もろくわ)神社を出発点として、高下駄を履いた猿田彦(天狗の面)が先頭をつとめ、その後ろに61厄の人々が幟などを持ち、続いて42厄の神輿と続きます。



神輿の後ろには、先にわらを束ねた竹竿に、細く割った竹に色とりどりの紙を飾った「天馬」を持って、各町内の役員や年行事の人たちが一緒に練り歩きます。





境内に入ると、この天馬を目指して、皆が一斉に走り出し、奪い取ります。これを家へ持ち帰ると、1年間家内安全、無病息災の御利益があるそうです。




祭には、大麻(おおぬさ)や榊を背に乗せた神が乗る天馬(てんま)や神馬(しんめ)と呼ばれる馬が登場することがよくあります。

また、かつては、馬の塔(おまんとう)といわれる飾りを施した多くの馬が天馬(神馬)や神輿とともに練り歩き、祭りを彩っていました。この地方でもかつては、あちらこちらのお祭りに飾り立てた馬が登場していました。

あくまで私見ですが、現在の「天馬」は、時代の変化とともに馬の塔の飾りを馬でなく、人が持つようになり天馬と馬の塔が一体となり、飾りそのものを「天馬」と呼ぶようになったと考えられます。祭りに参加した人たちは、この飾りのことを「天馬」と呼んでおられましたが、昔は「馬の塔」という言い方をされていた人がいたことを記憶しています。

かつてこの天馬を境内まで持って行った人の話では、境内に入るやいなや人々がすごい勢いで奪い取りに来ます。眼鏡は吹っ飛び、後ろから引き倒されて服は破れ怪我をして大変な思いをしたそうです。前年の役員からは、「ともかく境内まで走れ。ただし、危険を感じたら天馬を放り投げて逃げる。」と言われていたそうですが、その光景を想像することができず、悲惨な目にあわれたようです。