2007年7月7日土曜日

本宮山は標石の宝箱

最後に大縣神社から本宮山に登りました。大縣神社の奥に位置する山です。ここには、何度も訪れています。

山頂には、大縣神社の本宮社(奥之宮)があります。大縣神社は、垂仁天皇27年(紀元前3)、本宮山頂より現社地に遷座したと伝えられており、現在の地で2000年以上の歴史を誇っています。

雨がポツポツ落ちていたため、一旦駅近くに移動しましたが、天気が持ち直してきたことから、再び大縣神社から本宮山へと向かいました。

大縣神社を抜け、ハイキング道路を上っていくと峠が現れ、本宮山への分岐が見えてきます。



本宮山山頂に向かって右手には、展望台があります。






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本宮山前展望台は、かつて周りに高い樹木が無かったため(楽田村史 165頁に写真有)、とても素晴らしい展望が得られました。

この展望台がいつからあったかは定かではありませんが、本宮山に向かうハイキング道路入口手前の舗装路の途中に薬師川砂防堰堤(昭和28年12月25日完工)があり、その築造に続いてハイキング道路と展望台が整備されました。



この展望台の手前には、宮標石があり、その裏面には「村界二」という刻字が見られます。





ちょうどこのあたりは、かつての楽田村と池野村との村境にあたるところで、この標石はそれを示していると思われます。





この南東側にあるピークの尾根筋に御料局三角点(補点)がありますが、そこでも宮標石を2つ確認しています。そのうちの一つには、裏面に「楽田」の文字が刻字されているそうで、これも村境を示すものと思われます。

中電の標柱が近接して立っており、「楽田」の刻字があることを見落としていましたので、機会を見て確認したいと思っています。

展望台を横目に、本宮山の山頂を目指します。途中の岩場に、雨宮社と山姥青黄姫龍神の祠が鎮座しています。


雨宮社は、奈良時代に大旱魃続いていたときに、朝廷より勅使が来て「来てみれば山はいずこも枯れ果てぬ。雨の宮とは何を言ふらむ。」と和歌を詠んで、帰路に就いたところ一天にわかにかき曇り、その勅使は雷に打たれて亡くなったという言い伝えが残っています。



この祠は、山姥を祀ったものです。各地に山姥伝説がありますが、この地方の伝説のあらましは、次のとおりです。





梶原影時七臣の子孫の福富新造が狩りに出たところ、山頂の奥宮の灯明の火影に白金のごとく髪一丈に余る女がいて、それに矢を放ち、その血痕を辿っていくと小池与八郎の家の門にたどり着いた。小池与八郎の妻女は具合が悪く伏せていたが、白い紙に和歌が書かれていて姿が消えていた。さらに血痕をたどると、木曽川まで来てしまった。その後、妻女の一周忌の法要の際に老僧から「苧ヶ瀬池と呼ぶ池に一匹の大蛇が死んで浮かんでおり、左目に長い矢が射られていた。村人はその大蛇を供養すべく池の中にある小島に鳥居とお社を作り供養している。」と立ち去っていった。妻女は、苧ヶ瀬池の竜女であった。



そこを過ぎ、山頂(293m)にたどり着くとそこに本宮(奥之宮)があります。この奥之宮裏手には、「方位標」と「一等三角点」があります。





方位標は、「任意の観測点において、ある方向の方位を一定に保持するため地上に設置された目標」(田島稔編:測量用語辞典 山海堂 1997)とされています。




一等三角点は、三角形の平均辺長45kmごとに全国に972点の花崗岩でできた角柱が設置されており、愛知県には8点、岐阜県には17点、三重県には11点あります。




ちなみに、方位標の脇には、入鹿池方面へ下る東尾根道があり、そこでも宮標石を確認しています。この道は、入鹿池方面から本宮山山頂への最短ルートであり、かつては入鹿池に沈んだ村の人々が信仰の道として使っていたのかもしれません。

そのまま下ると、愛知用水脇の砂防指定地の標柱があるところへ出ます。愛知用水沿いに下流に向かって歩を進めると、天然記念物ヒトツバタゴ自生地、本宮山ハイキング道路へと続く道と交差します。

余談ですが、昨年この東尾根道では、イタチが捕食したと見られる鳩の羽根が散乱した様子がこの道のすぐ脇で見られました。道路で分断されていますが、多治見、瀬戸などの山々と続いており、熊や猪の出没騒ぎが周辺の一部の山でありましたので、少し緊張しながら歩いたことを覚えています。


2007.07.07 の犬山遊歩 (上から順に)

大縣神社にある楽田村道路元標  (別ウィンドウ)
殿守(天守)発祥の楽田城址  (別ウィンドウ)
本宮山は標石の宝箱