2007年7月16日月曜日

成田山、伊木山へ少し道草

帰りに、車を走らせながら、黒平山山頂から犬山城、伊木山方面を見渡した景色を思い出し、反対から黒平山を眺めたいとふと思い、急遽、成田山、木曽川対岸の岐阜県各務原市の伊木山へ寄り道して帰宅することにしました。

成田山本堂裏にある駐車場を目指します。まずは、成田山本堂裏の駐車場に車を止め、犬山城方面と町並みを眺めました。



犬山城と伊木山がよく見えるのですが、名鉄犬山ホテルとマンションが視界に入ってきて少し残念です。







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ツインブリッジもよく見えます。手前の橋がかつて名鉄電車と自動車が併走していた鉄橋です。2000年3月28日隣に自動車、歩行者用の橋ができたため、現在は、鉄軌道専用となっています。



成田山本堂へ向かいます。行ったら工事中で、境内は、半分ほどしか解放されていませんでした。ここからの黒平山の眺めは、さっさとあきらめ、退散しました。

続いて、このツインブリッジを渡り、木曽川に沿って岐阜県各務原市の伊木山へ向かいます。この山は、その形がキューピーの寝姿に似ていることから「キューピーの鼻」と呼ばれている東のピークを目指します。

各務原市の「青少年自然の家」の駐車場に車を止め、東登山口から登っていきます。「キューピーの鼻」に到着すると、突然視界が開けます。





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木曽川上流方面を見ると、犬山城、木曽川、右には継鹿尾山、成田山、中央には、6月23日のブログに掲載してある犬山城と木曽川の写真を撮りに行った「大平山」が見えます。




視線を犬山駅方面に移すと、中央付近ににかすかに見える鉄塔の向こうに、先ほどまでいた黒っぽく見える黒平山を望むことができます。





続いて、犬山ガスのガスタンクが見える方向へ視線を移すと、右には本宮山、中央に白山、左には尾張富士と尾張三山を眺めることができます。





最後に、大平山と、台風により増水した木曽川の様子を写真に収め帰路につきました。





犬山には、山が多いことを改めて実感しました。ここからの眺めは、犬山が、広大な木曽川扇状地の根っこであることを強く印象付けてくれます。

今日も撮影時間を含め、およそ6時間の里山遊歩。つい昔の癖で、家族が寝ている間に行き先を告げず、ふらりと出かけたにしては、少し長すぎたか・・・ 

携帯も持たずに出かけたため、今日のところは、素直に反省。


2007.07.16 の犬山遊歩 (上から順に)

黒平山(八曽山)の廃寺跡探訪  (別ウィンドウ)
八曽の宮標石、今井村の道標  (別ウィンドウ)
成田山、伊木山へ少し道草

八曽の宮標石、今井村の道標


黒平山山頂をあとにし、登ってきた道に戻って道なりに進み、「一の門」や「山の神」の分岐を示す木製の道標を目指します。分岐に出たら、「一の門」の矢印に従って歩を進めます。






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そのまま歩き続けると、T字路に出ます。来た方向から見て右手に進みます。



間もなくすると、鉄製のゲートが現れます。このコースは、比較的平坦なため、マウンテンバク、犬を連れたハイカー、マラニックを楽しむ人などいろいろな人とすれ違います。




そのまま進むと分岐があります。








そこには、「みぎうつゝみち ひだりたじみみち 今井村」と書いた石の道標があります。





犬山市が合併する前の今井村の人々や、「宗岳寺」の「秋葉の火祭り」に来る人たちが往来した道として、使われていたのでしょう。



また、この分岐の真ん中には、「界八」の宮標石があります。この先「うつゝ」方面にはまだ、宮標石がありますが、今日は、来た道を「山の神」(管理車道)方面に戻ります。



「界七」から順次宮標石をたどり、途中の分岐で右に折れ、確認している「界五」「界四」の宮標石へと歩を進めます。



「界五」「界四」の近くには見慣れない石柱があります。メジャーを忘れたため、採寸できなかったのですが、上から見ると長方形の標石です。刻字も見られず、何の標石か帰宅後調べてみてもわかりませんでした。


この道の隣には、岐阜県の可児市にある塩河カントリーゴルフ場があります。地図で確認するとよくわかるのですが、この道は、をちょうど愛知県と岐阜県の県境に沿っているようです。

以前も挑戦したのですが、「界四」の先にも県境沿いに宮標石がありそうに思えるのですが、踏みあとなど人が通った痕跡がないため、今日もやむなくあきらめました。



そのまま、朝入った管理車道との合流地点「山の神」の道標があるところを経て、駐車場まで戻りました。






2007.07.16 の犬山遊歩 (上から順に)

黒平山(八曽山)の廃寺跡探訪  (別ウィンドウ)
八曽の宮標石、今井村の道標
成田山、伊木山へ少し道草  (別ウィンドウ)

黒平山(八曽山)の廃寺跡探訪


今日は、台風一過、空気がいいので、視界が開けている黒平山(八曽山)を目指しました。







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今日のコースは、亀割(今井)駐車場→展望台(ヘリポート)→八曽滝→黒平山(八曽山)→今井村道標→亀割(今井)駐車場と歩くつもりです。



早朝、亀割池奥にある亀割(今井)駐車場に駐車しました。まずは、管理車道に入り、展望台(ヘリポート)を目指しました。





右上に見える屋根が、八曽の展望台です。手前にヘリポートがあります。平成6年に起こった八曽での大規模な林野火災では、ヘリコプターをを使ったり、多くの消防署員、消防団員の消火活動があって鎮火し、やっと自然が回復してきました。



しばし、展望台で休憩を兼ねて風景を楽しんだあと、八曽滝を目指しました。



昨日通過した台風のおかげで、八曽滝には、普段の数倍の水量があり、豪快に水が流れ落ちていました。この黒平山には、かつて寺院があり山伏がこの滝で修行したと言われています。別名「山伏の滝」と言います。


滝を眺め、滝音を楽しんだあと黒平山山頂を目指しました。



黒平山山頂付近一帯には、石垣の遺構があります。現在の犬山市大字塔野地にあった「宗岳寺」を再興した跡です。





「宗岳寺」は稲沢市から塔野地に1720年移転、その後1847年伽藍焼失し、そのまま放置されていました。それを明治11年(1878年)頃、「奥平貫山」が再建したものです。信徒であった入鹿村からの寄付があり、知多の石工が石垣を組んだと伝えられています。本堂・庫裏一棟(六間半、四間の大きさ)、仏堂一宇、鎮守堂一宇が尾張、美濃境にあった黒平山の山頂に再建されました。「奥平貫山」は遠州秋葉寺(現秋葉神社)で修行したことから、本尊である薬師如来像のほかに、住職をしていた遠州千光寺からもたらされた秋葉三尺坊大権現が祀られ、12月には、尾張の三大祭りと言われた「秋葉の火祭り」が盛大に催されたと言われています。「奥平貫山」は、民権運動に関わっていたと推察され、その軍資金を強盗により得ようとした「名古屋事件」に連座し、明治17年(1884年)12月逮捕、その翌年獄死しました。[資料 犬山市史 通史編 下 近代 現代 P60~P77]



この山頂には、小さな祠があります。その祠の奥には、二等三角点があります。山頂の周りもぐるっと石垣が囲んでいます。





犬山城、伊木山方面を望むとやはり、この時期としてはいつもより空気が澄んでおり、遠くまで見渡すことができました。






左手に視線を移せば、入鹿池、その奥に本宮山、右手に尾張富士を望むことができます。






2007.07.16 の犬山遊歩 (上から順に)

黒平山(八曽山)の廃寺跡探訪
八曽の宮標石、今井村の道標  (別ウィンドウ)
成田山、伊木山へ少し道草  (別ウィンドウ)

2007年7月7日土曜日

本宮山は標石の宝箱

最後に大縣神社から本宮山に登りました。大縣神社の奥に位置する山です。ここには、何度も訪れています。

山頂には、大縣神社の本宮社(奥之宮)があります。大縣神社は、垂仁天皇27年(紀元前3)、本宮山頂より現社地に遷座したと伝えられており、現在の地で2000年以上の歴史を誇っています。

雨がポツポツ落ちていたため、一旦駅近くに移動しましたが、天気が持ち直してきたことから、再び大縣神社から本宮山へと向かいました。

大縣神社を抜け、ハイキング道路を上っていくと峠が現れ、本宮山への分岐が見えてきます。



本宮山山頂に向かって右手には、展望台があります。






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本宮山前展望台は、かつて周りに高い樹木が無かったため(楽田村史 165頁に写真有)、とても素晴らしい展望が得られました。

この展望台がいつからあったかは定かではありませんが、本宮山に向かうハイキング道路入口手前の舗装路の途中に薬師川砂防堰堤(昭和28年12月25日完工)があり、その築造に続いてハイキング道路と展望台が整備されました。



この展望台の手前には、宮標石があり、その裏面には「村界二」という刻字が見られます。





ちょうどこのあたりは、かつての楽田村と池野村との村境にあたるところで、この標石はそれを示していると思われます。





この南東側にあるピークの尾根筋に御料局三角点(補点)がありますが、そこでも宮標石を2つ確認しています。そのうちの一つには、裏面に「楽田」の文字が刻字されているそうで、これも村境を示すものと思われます。

中電の標柱が近接して立っており、「楽田」の刻字があることを見落としていましたので、機会を見て確認したいと思っています。

展望台を横目に、本宮山の山頂を目指します。途中の岩場に、雨宮社と山姥青黄姫龍神の祠が鎮座しています。


雨宮社は、奈良時代に大旱魃続いていたときに、朝廷より勅使が来て「来てみれば山はいずこも枯れ果てぬ。雨の宮とは何を言ふらむ。」と和歌を詠んで、帰路に就いたところ一天にわかにかき曇り、その勅使は雷に打たれて亡くなったという言い伝えが残っています。



この祠は、山姥を祀ったものです。各地に山姥伝説がありますが、この地方の伝説のあらましは、次のとおりです。





梶原影時七臣の子孫の福富新造が狩りに出たところ、山頂の奥宮の灯明の火影に白金のごとく髪一丈に余る女がいて、それに矢を放ち、その血痕を辿っていくと小池与八郎の家の門にたどり着いた。小池与八郎の妻女は具合が悪く伏せていたが、白い紙に和歌が書かれていて姿が消えていた。さらに血痕をたどると、木曽川まで来てしまった。その後、妻女の一周忌の法要の際に老僧から「苧ヶ瀬池と呼ぶ池に一匹の大蛇が死んで浮かんでおり、左目に長い矢が射られていた。村人はその大蛇を供養すべく池の中にある小島に鳥居とお社を作り供養している。」と立ち去っていった。妻女は、苧ヶ瀬池の竜女であった。



そこを過ぎ、山頂(293m)にたどり着くとそこに本宮(奥之宮)があります。この奥之宮裏手には、「方位標」と「一等三角点」があります。





方位標は、「任意の観測点において、ある方向の方位を一定に保持するため地上に設置された目標」(田島稔編:測量用語辞典 山海堂 1997)とされています。




一等三角点は、三角形の平均辺長45kmごとに全国に972点の花崗岩でできた角柱が設置されており、愛知県には8点、岐阜県には17点、三重県には11点あります。




ちなみに、方位標の脇には、入鹿池方面へ下る東尾根道があり、そこでも宮標石を確認しています。この道は、入鹿池方面から本宮山山頂への最短ルートであり、かつては入鹿池に沈んだ村の人々が信仰の道として使っていたのかもしれません。

そのまま下ると、愛知用水脇の砂防指定地の標柱があるところへ出ます。愛知用水沿いに下流に向かって歩を進めると、天然記念物ヒトツバタゴ自生地、本宮山ハイキング道路へと続く道と交差します。

余談ですが、昨年この東尾根道では、イタチが捕食したと見られる鳩の羽根が散乱した様子がこの道のすぐ脇で見られました。道路で分断されていますが、多治見、瀬戸などの山々と続いており、熊や猪の出没騒ぎが周辺の一部の山でありましたので、少し緊張しながら歩いたことを覚えています。


2007.07.07 の犬山遊歩 (上から順に)

大縣神社にある楽田村道路元標  (別ウィンドウ)
殿守(天守)発祥の楽田城址  (別ウィンドウ)
本宮山は標石の宝箱

殿守(天守)発祥の楽田城址


続いて、楽田城址を訪れてみました。楽田城址は、現楽田小学校にあります。





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楽田城址について、「楽田村史」(425頁)では次のように記述しています。

「楽田城址は字裏之門にあり。今日に至る土居の一部及び濠の一部を残存し、当時の楽田小学校の敷地に全部を充当す。」



現在、楽田城址の石碑は、小学校の西門にひっそりとたたずんでいます。







かつては、城山と呼ばれていた土盛が楽田小学校校庭内にあり、子どもたちの格好の遊び場になっていました。そこに楽田城址の石碑がありました。





運動場が手狭になり拡張した結果、城山が運動場中央に位置したため、昭和54年9月に城山が取り除かれ、楽田城址の石碑が現在の場所へ移設されました。





楽田城は、天守の起源となる構築物がもっとも早く資料に記された城の一つです。

「楽田村史」(425頁)に元禄16年(1703年)小瀬甫庵が残した「遺老物語」について次の一節があります。「永禄元年(1558年)春、尾州楽田の城主その城中に高二間余に壇をつき、其上に二階の矢倉をたて八幡宮、愛宕権現を祭りて敵を防ぎたるにより、諸方にも聞き及びて、之れをつくり信長にいたりて甚大になりし事、江州安土の殿守其濫觴(らんしょう 物の始まりの意)と云々と見ゆ」とあり、「殿守(天守)」について述べられています。具体的には、「五間、七間の櫓を造り真中に八畳敷の二階座敷」があったとされています。

さらに古く、「天守」のことが書かれている文献があります。「細川両家記」という書物によると、永正17年(1520年)1月10日、細川但馬守と野間豊前守の二人が伊丹城で城内の「天守」で切腹したという記述が残されています。

しかし、その構造が文献に記載された城としては、楽田城が最も古いもので、城郭史を語る上で欠かせない存在と言われています。また、すでに無くなってしまいましたが、冒頭で記載した土盛(城山)が「遺老物語」の「城中に高二間余に壇をつき」の記述と一致しています。



そのほか、楽田城の遺構としては、通称「横町」と呼ばれる地区に楽田城の「北之門」址を示す新旧の石碑が建っています。





場所は、犬山市字横町132番地にある「神明社」向かいにあり、その北西には「北之門」の地名が残っています。






2007.07.07 の犬山遊歩 (上から順に)

大縣神社にある楽田村道路元標  (別ウィンドウ)
殿守(天守)発祥の楽田城址
本宮山は標石の宝箱  (別ウィンドウ)

大縣神社にある楽田村道路元標


今日は、早朝ふらりと大縣神社に行ってきました。犬山の南部に楽田という地区があります。名鉄小牧線で犬山駅から2つ目の駅「楽田駅」がある地区です。





そこから、1.5キロメートルほど東に進んだ突き当たりに尾張二の宮、「大縣神社」があります。その鳥居の手前に、楽田村の「道路元標」があります。




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(注)尾張一の宮は、一宮市の「真清田神社」、三の宮は名古屋市の「熱田神宮」





当時の社格は、 神宮>官幣大社>國幣大社>官幣中社>國幣中社>官幣小社>國幣小社 となっていました。

「熱田神宮」が官幣大社であったのに対し、「真清田神社」「大縣神社」は國幣中社であって、社格としては、「熱田神宮」より格下の神社が尾張一の宮、二の宮となっていました。


道路元標(どうろげんぴょう)とは、旧道路法に基づき、道路の附属物として設置されていたものです。主要国道の整備のため道路法(大正8年制定、法律第58号)が制定され、施行令(同年制定、勅令第460号)で、道路元標は各市町村に一個置くことが定められました。



「犬山市史 通史編 下 近代、現代 240頁」に道路原標のことが書かれています。






「[名古屋楽田線]楽田村の中央で、県道名古屋犬山線と分かれ、大縣神社に至る。この道路は、大縣神社が大正7年、県社から国弊中社に昇格したのにともなって整備された。なお、大縣神社の鳥居近くには愛知県庁から五里の地点を示す道路元標が現存する。」と記述されています。

現在の道路は、昭和27年に制定された道路法によって規定されており、現在は道路元標の設置義務が無いため、道路の改良工事などで取り去られ、時代の経過とともに消滅していったものが多くあります。

犬山市の道路元標位置
大正9年2月17日愛知県告示第58号
[出典]愛知県公報第523号(大正9年2月17日発行)

犬山町 大字犬山字東古券57
城東村 大字塔野地字東屋敷1-92
池野村 字内屋敷20
羽黒村 大字羽黒字東向畑35-1
楽田村 字宮西3


2007.07.07 の犬山遊歩 (上から順に)

大縣神社にある楽田村道路元標
殿守(天守)発祥の楽田城址  (別ウィンドウ)
本宮山は標石の宝箱  (別ウィンドウ)